90年代や2000年初頭のタイはまだ謎多き国で、怪しい雰囲気がたくさんあった。パンデミック禍中の日本で怪談や呪物といった奇怪なものが人気になり、その界隈ではタイが再注目されている。
その中で大昔からあるものとして「サックヤン」を紹介したい。僧侶やタイ人男性が入れている刺青で、日本語では「護符刺青」と訳すのが妥当だ。今回はそんなサックヤンの彫師であるアージャーン・エーのアトリエ兼自宅に伺った。
タイにおける刺青の立ち位置とサックヤンの存在とは

日本では刺青はあまりよく思われていない。
以前、公務員が刺青を入れることの是非が問われたり、外国人観光客が増えている中で温泉などの受け入れが議論されている。
筆者も刺青を入れている側なので、こちら側からそれに関して個人的な意見をいわせてもらうと、公務員が入れることはよくないと思うし、温泉などの施設で受け入れがたいというのであれば遠慮なく拒否すればいい。
それは日本の文化や日本人の考え方なのだから、外国人に合わせる必要はない。
実際問題、どの国であっても刺青を「善」とする風潮なんてないと思う。
日本は1899年(明治32)から1948年(昭和23年)まで刺青の禁止令があったし、現在のタイにおいてもたとえば警察官や軍隊は入隊時に刺青があると採用されないそうだ。
なにかしら深い考えがないなら、刺青はないほうがいいに決まっている。
そんなタイのサックヤンも一時期は廃れつつあった。
サックとは刺青のことで、ヤンはヤントラ、つまりサンスクリット語のマントラ(真言)を図形にしたものを指す。
簡単にいえばお守りだ。
発祥は不明で、ラーンナー王朝やスコータイ王朝時代などの仏教伝来以前からあるもので、サックヤンに用いられる文字はコーム文字という、今のカンボジア人の先祖にあたる民族が使っていたもので描かれる。
そして、90年代ごろから会社で働く人が増え、そういった若者はタトゥーやサックヤンをしなくなってしまう。
その後、2000年代に入ってハリウッド女優のアンジェリーナ・ジョリーが「ハーテウ」(5列)というサックヤンを入れ、タイでもこの文化が見直された。
アージャーンという職業が成り立つ

もともとは仏教のものではなく、仏教伝来で習合してサックヤンは寺院などで入れるものになった。
ただ、タイの僧侶は女性に触れることができないので、主に男性向けだったはずだ。
今はカラワート(在家信者)が彫り、最後に僧侶が神聖な力を入れてくれるので、女性も寺院でできなくはない。
そんな中でカラワートの中にも特別な力を身につけ、僧侶を介さなくても直接力をこめることができる人が現れる。それがアージャーンという人たちだ。
アージャーンはそもそも教授といった偉い先生を指すので、彫師のアージャーンは「師」などと訳す。
アージャーン・エーはエー師といった感じだ。
どのアージャーンも以前は寺院と同じように彫ってもらう人が自分で値段を決めていた。
少なくとも2000年代初頭はそうだった。
しかし、先のハリウッド女優でアージャーンという職業が注目され、今は料金が高騰している。
小さい図柄でも10万円はするといってもいい。
ただ、それにつけこんだ偽者も増えているので、もし入れたい場合は本当に力があるかどうかを見極めないといけない。
今回インタビューをしたアージャーン・エーは信者もたくさんおり、筆者は本物だと信じている。
アージャーンが経を唱えればあっという間に神のような「なにか」が信者の身体に入り込んでくる。
トラを入れた人は獰猛に唸り、ハヌマーン(サルの神様)が入れば立ち上がって暴れる。
アージャーン・エーのアトリエ兼住まいは線路のそば
アージャーン・エーはここ数年だけでも何度か引っ越しをしており、どちらかというと低所得者向けの地域に好んで暮らしている。
信者もまた同じような所得層で、特にアージャーンが得意とする首のないトラ「スア・フアカート」は軍人や不良少年に人気だ。
グーグルマップに住所を入れても出てこないような場所ばかりで、新居を訪ねると毎回アージャーン・エーは「よくわかったな」という。それくらい辺鄙な場所である。
こういった住まいなので、サックヤンを彫ってもらう分にはなかなか雰囲気があっていい。
時折、外からタイ国鉄南部本線の列車が通過する音も聞こえてくる。
昔ながらの住居形態なので、ホングナームと小さな台所があるシンプルな造り。
ホングナームは水の部屋なので、すなわちトイレであり、風呂場でもある。
和式便器に似たタイ式のトイレも横にあるバケツから水をすくって流す。
訪ねるとたまに何人もの信者が来ていることもある。
何度か顔を合わせたことのあるタイ人男性は、毎回トラが降臨して床を這いまわっている。
あとで訊くと、彼自身は手を合わせてアージャーンの経を聞いているだけなのだそうだ。
ただ、タイ人も必ずしもみんなが信じているわけではなく、あるときその奥さんが一緒にいたのだが、夫が這いまわるのを見て必死に笑いをこらえているのを筆者は見てしまったこともある。
サックヤンはタイの文化のひとつ
アージャーン・エーの住まいは決して裕福とはいえない地域で、一見治安が悪そうに見える。
ところが、実際にはその逆だ。
タイはスラムもそうで、悪の巣窟のようなイメージを持ちやすいが、少なくともバンコクの歓楽街より治安に関しては悪くない。
単にインフラが整っていないだけで、住人は多くが地方出身の気質を心根に持ったまま暮らしている。
アージャーン・エーの近所の人もいつも優しく話しかけてくれる。
とはいっても、日本人が暮らすのは難しい面もあると思う。
確かにこの地域はディアライフが紹介するような物件とは真逆の家賃相場であろう。
まず法的な面でいうと、物件オーナーは外国人を受け入れる場合、イミグレーションに報告をしなければいけない。
このクラスの物件はオーナーがそもそもそれを知らないだろう。
届け出がないとビザの延長に支障をきたすケースもある。
そういう意味では、ディアライフが紹介するやや高めのいい物件というのは、ただ高いだけでなく、ちゃんと理由があるのである。